特集「西郷どん」を知る(その11) 孝明天皇
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明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」。ドラマもいよいよ明治になり、江戸城無血開城を迎えました。
明治維新150年記念の大河ドラマ「西郷どん」を「もっと分かりやすく」をテーマにしたシリーズ第11弾! 今回は、維新のきっかけとなった明治天皇の父・孝明天皇について説明します。
1846年、仁孝天皇の崩御に伴い、孝明天皇は15歳の若さで。第121代天皇に即位しました。 この頃、日本近海にはたびたび外国船が現れる時代となり、孝明天皇は徳川幕府に対して、海防強化と外国船の状況報告を求めるなど、一貫して開国に反対し「攘夷」を求めました。 1858年、大老・井伊直弼が無勅許のまま締結した「日米修好通商条約」を非難し、退位の意向も示しました。 1860年、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、信用を失墜した幕府は朝廷との公武合体によって実権を回復しようとしました。 天皇も、攘夷の維持のためには国内一致が急務であると判断し、「攘夷実行」を条件に、妹の「和宮」が第14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁すること許しました。 | |
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孝明天皇が攘夷論を唱えることにより、国内の尊王攘夷派は、勢いを増していきます。 しかし、孝明天皇が願う攘夷は、「徳川幕府のもとに諸藩が協力して攘夷を行うこと」でした。 そのため、攘夷のためとはいえ、過激な行動に出る長州藩には嫌悪感を示していました。 一橋慶喜、松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目ざし、岩倉具視ら一部公卿の倒幕論には批判的でした。
1866年7月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は長州征伐の停止を幕府に指示し、幕府の統制力の崩壊は決定的となりました。 同年12月、第15代将軍に徳川慶喜が就任し、幕政の建て直しを図ろうとしていましたが、慶喜が就任して20日後の12月25日に孝明天皇が36歳の若さで急死してしまいます。
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孝明天皇の死因は天然痘と診断されましたが、他殺説も存在し議論となっています。 天皇は、徳川幕府を中心とした体制で日本の安泰を願っていましたので、天皇が任命した征夷大将軍に挙兵することは、天皇の命に背くこととなり、討幕派はその行動を起こせないでいました。
翌1867年1月、明治天皇が14歳で即位しました。 討幕派は、徳川慶喜から征夷大将軍の職をはく奪して諸侯の列に格下げし、朝廷のもとで開かれる諸侯の会議で国家の大事を決める政体を樹立しようと図っていました。
討幕派が朝廷への工作を強めるなか、土佐藩前藩主山内容堂は、15代将軍徳川慶喜に対し、政権を返還するよう建白しました。 朝廷から薩摩と長州に「討幕の密勅」が下った1867年10月14日、徳川慶喜は大政奉還を申し出て、朝廷はこれを受理。家康以来265年続いた徳川幕府はついに幕を閉じることになりました。 朝廷は同年12月9日、「王政復古の大号令」を発し、小御所会議で慶喜の辞官・納地を決定しました。 | |
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翌1868年1月、薩長軍と旧幕府軍が対決。鳥羽・伏見で戦い、朝廷工作に成功した薩長軍が「錦の御旗」を掲げ、官軍となり、旧幕府軍が賊軍となって薩長軍が勝利しました。 薩長を中心とした新政府は、江戸城総攻撃の準備を進めていました。 同年3月に西郷隆盛は、幕臣の勝海舟と会談し、4月に「江戸城無血開城」することが決まりました。 新政府軍と旧幕府軍が江戸で戦えば、江戸が戦場となって、外国勢力の介入を許すこととなります。 内乱は、薩長を支援するイギリス軍と幕府を支援するフランス軍の代理戦争となり、日本が崩壊するという判断で合意し、「江戸城無血開城」となったのです。 | |
それでも東北の諸藩は新政府に反対し、旧幕府軍と新政府軍は,1年半に及ぶ局地戦(戊辰戦争)を繰り広げます。
徳川幕府は、孝明天皇という後ろ盾をなくして、一気に崩壊の道をたどりました。 孝明天皇が生きていれば、明治維新は起こっていなかったかもしれません。 |