特集「西郷どん」を知る(その8) 薩英戦争と下関戦争
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明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」、いよいよ後半の革命編へ突入します。。
明治維新150年記念の大河ドラマ「西郷どん」を「もっと分かりやすく」をテーマにしたシリーズ第8弾! 今回は、1863年、1864年に起きた海外艦隊との武力衝突、薩英戦争と下関戦争について説明します。
西郷吉之助が沖永良部島に流罪となった1962年、朝廷の後ろ盾を経て、文久の幕政改革の立役者となった薩摩藩国府・島津久光の一行が薩摩への帰途、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に差し掛かったところ、馬の乗った4人のイギリス人が行列を遮りました。 薩摩藩士は無礼射ちとして、3人を殺傷(1人死亡)しました。(生麦事件) | |
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この事件の処理を巡り、イギリス代理公使のニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求、薩摩藩には直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告しました。
これには、井伊直弼が諸外国と交わした不平等条約(安政の五カ国条約)が関係します。 薩摩藩としては、慣例に従い大名行列の行く手を妨害したものを無礼射ちしたもので、非はイギリス人にあると思っています。 一方、イギリス側とすれば条約による治外法権(日本の法令は該当しない)で、非は幕府と薩摩藩にあるとしています。
翌1863年、イギリスは幕府から賠償金を受領し、艦船7隻で薩摩に向かいます。 薩摩藩との交渉は決裂、鹿児島湾で砲撃戦となりました。(薩英戦争) | |
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薩摩藩は、前藩主・島津斉彬のころから大砲を製造し、湾内8か所の台場から応戦しました。 世界一を誇るイギリス艦隊の砲撃により、砲台のほか鹿児島城下の10分の1が焼失、斉彬が建設した工場群・集成館も壊滅してしまいました。 しかしながら、薩摩藩の攻撃がイギリス艦隊の旗艦ユーライアラスに命中、折からの暴風雨も重なり、イギリス艦隊は横浜へ引き上げていきました。 島津久光をはじめ、薩摩藩士や一般庶民も内陸地へ逃げていたため、城下の10分の1を焼失したとはいえ、死傷者はイギリス艦隊の方が多かったのです。 | |
一方、攘夷(外国排斥)を藩論とする長州藩は、実行にでます。 公武合体策として孝明天皇の妹・和宮が徳川家茂の正室に降嫁した際に、幕府が天皇に約束した「攘夷」を行うことを1863年5月、諸藩に通達しました。 幕府は武力衝突を望んでいませんでしたが、この通達を機に長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船に向けて砲撃しました。
急進的な攘夷論で暴走する長州藩に対して、幕府は長州藩を支持する公家たちを京都から追放しました。(8月18日の政変、七卿落ち)
この頃、政治の中心は京都になっていました。 朝廷、公家たちの重要度が増し、多数派工作が水面下で行われていました。
翌1864年、こうした政局を踏まえ、薩摩藩では西郷吉之助を赦免。沖永良部島から呼び戻し、軍賦役兼諸藩応接役に任命しました。 幕府・朝廷・諸藩との交渉役を務めると同時に、有事の際は藩兵を指揮する立場となりました。
勢力を回復する機会をうかがっていた長州藩は、尊攘派志士が殺害された池田屋事件に憤慨し、京都へ挙兵。 迎え撃った幕府側の会津藩に西郷率いる薩摩藩が応援に加わり、長州軍を退けました。(禁門の変、蛤御門の変) | |
時を同じくして、前年からの関門海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州藩に対して報復措置をとることを決定。 フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、艦船17隻で四国連合艦隊を編成しました。 同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊させました。(下関戦争、馬関戦争)
日本国内で敵対する薩摩藩と長州藩。 原因は異なるものの、外国艦隊の圧倒的な軍事力を目の当たりにした両藩は、攘夷の不可能を知り、やがて討幕へと向かっていきます。 |