特集「西郷どん」を知る(その9) 鹿児島の世界遺産
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明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」、いよいよ後半の革命編へ突入しています。。
明治維新150年記念の大河ドラマ「西郷どん」を「もっと分かりやすく」をテーマにしたシリーズ第9弾! 今回は、主人公の西郷吉之助が活躍した時代の鹿児島の世界遺産について説明します。
薩摩藩の近代化は、島津斉彬が藩主となった1851年から始まります。 欧米列強の脅威が迫るなか、強く豊かな国づくりを目指し「集成館事業」をスタートさせました。 集成館は日本初の工場群で、鉄製の大砲を造るための反射炉の建設も行われました。 集成館で行われた事業は、製鉄事業のほか、造船、紡績、陶磁器、ガラス細工など多岐にわたります。 | |
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集成館では、最盛期には1200人もの人が働いていたといわれています。 ここで培われた技術が、のちに全国へと広がっていきました。 この集成館事業の跡が今でも鹿児島県に残っています。 これらの遺産は、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として、世界文化遺産に登録されています。 | |
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△反射炉跡 <日本の近代工場発祥の地> 反射炉は、鉄を溶かして大砲を造るためのものです。現在は、1857年に建設され、薩摩在来の石組み技術で精密に造られた2号炉の下部構造が残っています。かつては、この上に高さ16メートルほどの煙突がそびえ立っていました。 | |
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△関吉の疎水溝 <集成館の動力水車に水を供給> 集成館の工場で必要な動力を得るために1852年に築かれた水路の取水口跡です。 この水路は、地形の勾配を利用し、ここから約7㎞に渡って集成館まで導水していました。 この引き込んだ水を利用し、集成館内の工場で使う動力源に変えていました。 現在でも、疎水溝の一部は農業用として利用されています。 | |
△寺山炭窯跡 <集成館事業の燃料として必要な木炭を製造> 集成館事業に用いる燃料の木炭を製造した炭窯の跡。 石炭が採れなかった薩摩では火力の強い白炭を製造するため、集成館から北へ約5kmに位置する吉野町寺山に炭焼窯を造りました。 寺山には、1858年に建設された炭窯の跡が残っており、炭窯本体は堅牢な石積で築造された当時の姿を残しています。 | |
集成館事業は、1858年の斉彬の急死により一時縮小され、1863年の薩英戦争で焼失してしまいました。 薩英戦争で欧米列強との圧倒的な力の差を感じ、攘夷の不可能を知り、さらなる近代化の必要性を感じた薩摩藩は、イギリスとの和解交渉のなかで、イギリスとの貿易を始めます。 洋式機械や蒸気機関を購入し、イギリスとの間で、留学生の派遣や技術者の招聘を行い、積極的な技術の導入を進めました。 | |
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△ 旧集成館機械工場 <現存する日本最古の西洋式機械工場> 斉彬の跡を継いだ薩摩藩主・島津忠義は、幕府直営の長崎製鉄所を手本に、オランダから工作機械を輸入して再興を行い、1865年に建物が完成しました。 1863年製造のオランダ製形削盤も現存しており、国の重要文化財に指定されています。 現在は、幕末を今に伝える博物館「尚古集成館」として公開されています。 | |
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△旧鹿児島紡績所技師館(異人館) <日本で最も初期の本格的洋風建築> 1867年に日本で初めて設置された洋式紡績工場である鹿児島紡績所で技術指導にあたった英国人技師の宿舎として建築されました。日本の洋風建築のうち、現存する2階建住居としては最も初期のものです。
このように、幕末から明治にかけて日本の近代化は薩摩から始まりました。 西郷吉之助が、沖永良部島から呼び戻され、京都で活躍しているとき、薩摩では全国に先駆けて欧米の先端技術を取り入れていました。 最新の武力をはじめ、郷土のバックボーンが幕政での発言力を高めることとなりました。 | |
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