エンタメ「西郷どん」を知る(その6) 徳川家の将軍継承問題
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明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」が放送中です。 3月25日放映の第12話から、薩摩藩主・島津斉彬の幕政介入と斉彬の密偵となった西郷吉之助の活躍が始まりました。
明治維新150年記念の大河ドラマ「西郷どん」を「もっと分かりやすく」をテーマにしたシリーズ第6弾! 今回は、将軍家の相続問題についてお伝えします。
徳川幕府は代々、徳川将軍家の長男が将軍職を世襲する原則を定めていました。 徳川将軍家の男子による将軍職の世襲を確立するため、歴代の当主は多くの側室を大奥に抱えて血統の保持に努めていました。 しかし、徳川宗家はたびたび実子を欠き、近親の分家や家康の子を祖とする御三家や御三卿から養子を迎えて家系をつなぐことが少なくなかったのです。 | |
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老中・阿部正弘の調停により、薩摩藩の前藩主・島津斉興に引退勧告をした徳川12代将軍・徳川家慶は、14男13女をもうけましたが、ほとんどが早くして亡くなり、20歳を超えて生きたのは四男の家定だけでした。 しかし、家定も幼少の頃から病弱で、家慶は家定の後継ぎとしての器量を心配していました。 家慶は、ペリーが1度目の来航をした直後の1853年6月に熱中症による心不全で亡くなりました。
29歳で跡を継いだ第13代将軍・徳川家定の体調は治ることなく、将軍になる前に公家から正室に迎えたものの先立たれてしまい、子供もできませんでした。 大河ドラマでは、虚弱体質の徳川家定を芸人で作家の又吉直樹さんが演じています。 | |
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家定が将軍になって、薩摩藩の島津家から篤姫を正室に迎えるのですが、大奥より島津家に対する縁組みの持ちかけは家定が将軍となる以前からありました。 将軍継嗣問題で一橋派であった斉彬が篤姫を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようとする政略ではないかと考えられていましたが、現在では篤姫の入輿と将軍継承問題は無関係と考えられています。
大奥が島津家に縁組みを持ちかけた理由として、家定自身が虚弱で子女は一人もいなかったこと、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在であったことから、島津家出身の御台所(広大院、斉彬の祖父・重豪の娘)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われています。 | |
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家慶の後を継いだ家定は将軍就任後、更に病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり、政務が満足に行えなかったため、幕政は老中・阿部正弘によって主導されていました。 阿部正弘は、譜代大名・備後福山藩第7代藩主。若くして老中に任じられ、迫りくる欧米列強への対応に、朝廷をはじめ、外様大名を含む諸大名からも意見を求め、挙国一致で国難を乗り切ろうとしました。
阿部正弘は、1854年1月にペリーが再来航し、日米和親条約を締結。これを機に諸藩に対して大船建造を解禁して海防の強化を命じるなど安政の改革を行いました。 大河ドラマ「西郷どん」では、藤木直人さんが切れ味鋭い老中首座・阿部正弘を演じています。
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さてさて、 外国船が次々と海上に現れ、対応に迫られる幕府。 あてにならない将軍・家定。 薩摩のためにと、その将軍に輿入れする篤姫。 開国派と鎖国派(攘夷派)に意見が割れる大名。 これを機に幕政に参画しようとする水戸藩などの親藩と薩摩藩などの外様大名。 権益を守ろうとする彦根藩などの譜代大名。 内憂外患のなか、子供のできない将軍・家定の後継ぎをめぐって、徳川御三家の紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ、のちの家茂)を次期将軍候補として推すグループ(南紀派)と、御三卿の一橋家当主・一橋慶喜(よしのぶ)を推すグループ(一橋派)が対立します。
当時、慶福は10歳になったばかり。徳川将軍家に血筋が近いことから、彦根藩主・井伊直弼など譜代大名や旗本などが推していました。 一方、一橋家の養子となった一橋慶喜の実父は前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)。 斉昭は1853年6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わっていました。
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