特集「西郷どん」を知る(その10) 昨日の敵は今日の友
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明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」、いよいよ後半の革命編へ突入しています。。
明治維新150年記念の大河ドラマ「西郷どん」を「もっと分かりやすく」をテーマにしたシリーズ第10弾! 今回は、薩摩藩と長州藩が手を組むまでの出来事について説明します。
1864年、沖永良部島から呼び戻され、軍賦役兼諸藩応接役に任命された西郷吉之助は、京都に進軍した長州軍に対し、幕府側として薩摩軍を率い、長州軍を京都から退けました。(禁門の変) | |
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西郷吉之助は、禁門の変後に組織された征長軍(第一次長州征伐)の参謀を務め、長州藩に乗り込み、戦わずして長州藩は降伏し、責任者の処分受入れと幕府への恭順姿勢を取り付けました。 長州藩は、下関戦争(馬関戦争)と禁門の変の敗北で、戦意を喪失していたのです。 この時の征長軍総督は尾張藩主・徳川慶勝。長州藩に寛大な処分をとったため、いとこの一橋慶喜に叱責され、第二次長州征伐には参加しませんでした。 | |
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翌1865年、西郷吉之助は、39歳にして3度目の結婚をしました。 相手は、薩摩藩士・岩山直温の次女、糸子です。 糸子は、1847年生まれで当時23歳、吉之助とは16歳差。 ドラマでは幼なじみの設定になっています。 | |
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第一次長州征伐後、長州藩では幕府恭順を示す保守派が藩の運営をしていましたが、対幕府強硬派の高杉晋作らが内戦の末、藩の実権を握りました。 こうした動きに対し幕府は、再び長州藩征伐の許可を天皇から受けます。(第二次長州征伐) 朝廷の命とあれば、薩摩藩も再び征長軍に参加しなければならない。
しかしながら、第一次長州征伐で功績を上げながら、幕政に参加できない立場に置かれていた薩摩藩は、第二次長州征伐には参加を表明せず、密かに長州藩との提携の道を探っていました。 | |
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幕府代表の一橋慶喜、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬らが孝明天皇の信任を得て、朝議を取り仕切っていました。 3年前の文久の改革で幕府と約束した薩摩藩など雄藩連合による政治運営とは程遠いものものとなっていたのです。 とはいえ、「幕府(将軍職)は、徳川家が天皇(朝廷)から任命されたものである。島津家をはじめとする諸大名が幕府を否定する動きをすることは、天皇に対する不義」とする考えのもと、この時点では薩摩藩は「討幕」には至っていません。
翌1866年、坂本龍馬らの仲介により薩摩藩と長州藩の話し合いが行われ、薩長同盟が締結されました。 薩摩藩はイギリスから買い付けた武器を長州藩に横流し、長州藩からは米が薩摩藩に提供されました。 この薩長同盟(薩長盟約)は、薩摩藩と長州藩が討幕のため運命を共にするという軍事同盟ではありません。「薩摩藩が長州藩の後方支援し、長州藩の復権を手助けする」というものでした。 これにより、薩摩藩は米不足を解消、長州藩は最新の武器で長州征伐に臨む準備ができたのです。
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