エンタメ「西郷どん」を知る(その4)薩摩藩主・島津斉彬と佐賀藩主・鍋島直正
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1月から、明治維新の立役者の一人として知られる西郷隆盛が主人公のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」がスタート。 2月4日放映の第5話からは、島津斉彬(なりあきら)が藩主に就任した当時の薩摩藩の様子が描かれています。
明治維新150年記念の大河ドラマ「西郷どん」を「もっと分かりやすく」をテーマにしたシリーズ第4弾! 今回は、幕末の名君・島津斉彬藩主誕生の頃の佐賀藩に目を向けてみます。
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△佐賀藩第10代藩主・鍋島直正 1830年、佐賀藩では、父・鍋島斉直の隠居の後を受け、17歳で第10代藩主に鍋島直正が就任しました。 直正の母は、鳥取藩主・池田治道の娘・幸姫。島津斉彬の母・弥姫(いよひめ)の妹で、斉彬と直正は母方のいとこ同士です。 佐賀、薩摩両藩の江戸藩邸も近かったことから、斉彬と直正の交流もありました。
当時の佐賀藩は、江戸時代の唯一の貿易場所・長崎の警備を福岡藩と交代で行っていました。 この長崎警備の負担や1828年のシーボルト台風の被害などにより、藩の財政は破綻寸前に陥っていました。 直正は、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ役人を5分の1に削減するなど藩財政の改善に努めました。 | |
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一方で、直正は西洋の進んだ文明を目の当たりにし、オランダ船の頑丈な構造を実見するとともに、海上から陸地を見渡すことで、大砲による海防の重要性を感じていました。 外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い大砲が必要でしたが、従来の日本の鋳造技術では大型の大砲を製作することは困難でした。
1850年、直正は大砲製造を行う「大銃製造方」を新たに設けて、大砲のための鉄を製造する反射炉の築造を行いました。 反射炉とは、燃料の熱を壁や天井の面で反射させて炉内の温度を上げ、鉄や銅などの金属を溶かす溶解炉です。
かくして、島津斉彬が薩摩藩主になった翌年の1852年には、佐賀藩が日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功しました。 | |
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1851年、薩摩藩の藩主となった島津斉彬は、蘭学の知識を生かして仙巌園敷地の竹林を切り開き、大工場群「集成館」の建設に着手しました。 反射炉の建設をはじめ、その周辺に溶鉱炉やガラス工場、蒸気機関の研究所などの施設をつくり、西洋諸国に追いつこうと考えていたのです。 1852年、佐賀藩の鍋島直正から贈ってもらった大砲鋳造ための蘭書『ロイク国立鋳砲所における鋳造法』をもとに鉄の製造に取りかかりましたが、当初はなかなかうまくいきません。
当時、「鎖国の中の鎖国藩」と言われるように、諸藩との交流の少なかった佐賀藩ですが、鍋島直正は5歳年上のいとこの島津斉彬には技術提供を惜しみませんでした。
「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり。屈することなく研究に励むべし」。島津斉彬は、失敗を繰り返しながら、反射炉を完成させた佐賀藩の苦心を引き合いに、藩士たちを鼓舞し続けたのです。 | |
▽佐賀藩、最初の反射炉・築地(ついじ)反射炉 | |
当時の最先端技術をもつ佐賀藩の大砲製造技術は、幕府も高く評価し、1853年、ペリー来航後、幕府は佐賀藩に品川台場向けの鉄製大砲50門の製造を依頼しました。 今の「お台場」の名称の由来となった品川台場に佐賀藩製造の大砲が備え付けられたのです。 その後、佐賀藩の技術提供により伊豆国、江戸、薩摩、水戸、萩藩などで大砲を鋳造するための反射炉が次々に建設されました。
1853年、伊豆韮山代官・江川英龍が佐賀藩からの技術支援を受けて韮山に反射炉を設置。 1857年、薩摩藩が反射炉を完成させ運用。水戸藩徳川斉昭が現在のひたちなか市に反射炉を2基完成。 こうした佐賀藩の技術の浸透とともに、「欧米列強に対抗するには交流し、日本全体で技術水準を高めるしかない」という薩摩藩主・島津斉彬の考え方が、後の幕政に大きな影響を与えるようになっていきます。
▽品川台場 | |
▽東京・お台場 品川台場跡 |