今年で771年目となる福岡市の夏の風物詩「博多祇園山笠」。 山笠人形で豪華に彩られた高さ10メートルを超える山車「飾り山」が、市内14カ所で公開されています。 その「飾り山」や、男衆が担ぐ山車「舁き山」を紹介するコーナー、題して「山笠(ヤマ)を知る!」。 その第3回目は、6番山笠・中洲流の「飾り山」です。 (2番山笠・恵比須流、3番山笠・土居流、4番山笠・大黒流は「舁き山笠」のみ) <6番山笠・中洲流「飾り山」表> 【標 題】源平扇的誉(げんぺいおおぎのまとのほまれ) 【人形師】三宅 隆 氏 文治元年(1185年)2月、一の谷の合戦で敗れた平家軍は、四国の屋島に逃れた。源義経は四国の阿波に上陸し陸路をとって進軍、慌てた平家軍は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することとなった。 夕暮れになったころ、沖から立派に飾った一艘の小舟が近づいて来た。見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っている。「この 扇を弓で射落としてみよ」という挑戦だ。義経は、弓の名手那須与一(なすのよいち)を呼び寄せ「あの扇を射て」と命た。岸を打つ波も高く、舟は揺れ、扇は 少しも静止していない。 与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じ る位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて、鏑矢(かぶらや)を放っ た。矢は見事に扇に命中、沖の平家軍も陸の源氏軍も、これには等しく感動したそうだ。 このとき与一は弱冠20歳、与一と扇の間は40間(約72m)もあったという。(平家物語) <6番山笠・中洲流「飾り山」見送り> 【標 題】決戦のぼうの城(けっせんのぼうのしろ)) 【人形師】中村信喬氏 天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉の命をうけ、石田三成率いる2万の軍勢が武州・忍城(ぶしゅう・おしじょう)を水攻めで攻撃した。迎 え撃つのは「でくのぼう」と揶揄され「のぼう様」と呼ばれる忍城・城代「成田長親(なりたながちか)」以下農民、女、子供約3,000の軍勢。家臣の正木 丹波、酒巻靱負(さかまきゆきえ)らの活躍により、石田軍を翻弄した。「あの秀吉が唯一落とせなかった城」として、今秋「のぼうの城」の映画が公開され る。 人々の心を打つ歴史上の一戦を映画公開よりひと足早く、山笠で見ることができる。 <博多祇園山笠公式ホームページ> http://www.hakatayamakasa.com/index.php 関連記事 山笠(ヤマ)を知る②! 5番山笠・東流「飾り山」 山笠(ヤマ)を知る! 1番山笠・千代流「飾り山」 【動画】新・QBCのなるほど豆知識講座 博多祇園山笠編 ♪CHEERS/choCo |