目指せ!九州から世界遺産MI6といっしょに学ぼう!「明治日本の産業革命遺産」日本の歴史(第4話)韮山反射炉

Posted:2014年08月25日
 

 

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平成27年度の世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」。福岡県世界遺産登録推進レディ・MI6(エムアイシックス)といっしょに、この遺産に関する日本の歴史を学ぶシリーズ第4話、今回は、「韮山(にらやま)反射炉」です。

 

 

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1953年にペリー来航がしたとき、江戸湾海防の必要性を感じた老中・阿部正弘は、実務責任者として伊豆韮山代官 江川英龍(通称は太郎左衛門、号は坦庵)を任命しました。

幕府は、江戸内湾への台場築造と平行して、ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた江川英龍に反射炉の建造を要請します。

反射炉は「銑鉄(せんてつ)を溶かし、大砲を作るための溶解炉」です。

当初、資材や原料鉄の搬入と、生産した大砲の搬出・回送の便を考え、下田港近くの場所が反射炉の建設地となりましたが、建設中に日米和親条約が締結され、下田が開港場となったため、韮山代官所にも近い田方郡中村(現:伊豆の国市中)に移転されました。

 

 

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反射炉は、ヒュゲニン(huguenin)著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書に基づいた連双式(炉を2つ備えたもの)を2基、直角に配置した形となっていて、4つの炉を同時に稼動させることが可能なものでした。

 

1855年、江川英龍(坦庵)は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまいました。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、1857年11月、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成しました。

完成した反射炉では1864年に使用が中止されるまでに、数多くの西洋式大砲が鋳造され、品川台場にも配備されました。

 

幕末の反射炉は、伊豆国(韮山)をはじめ、佐賀藩(築地)、薩摩藩(集成館)、水戸藩(那珂湊)、鳥取藩(六尾)、萩藩(西洋学所)などに建築されました。

このうち、今も現存する韮山反射炉、萩反射炉、鹿児島集成館跡が、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産となっています。

・・・つづく

 

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