目指せ!九州から世界遺産MI6といっしょに学ぼう!「明治日本の産業革命遺産」日本の歴史(第2話)ペリー来航
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平成27年度の世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」。福岡県世界遺産登録推進レディ・MI6(エムアイシックス)といっしょに、この遺産に関する日本の歴史を学ぶシリーズ第2話、今回は、「ペリー来航」です。
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アヘン戦争以降、欧米列強の脅威が迫るなか、江戸幕府は鎖国政策を続けていました。国内では、財政赤字に悩まされ、改革も思うように進まず、まさに内憂外患の状況が続いていました。
こうしたなか、1853年6月にアメリカのペリーが大統領の国書を携えて、4隻の黒船とともに、浦賀(現:横須賀市)に来航しました。 幕府は、「鎖国は祖法(先祖からの国法)」を理由に、国書を受理できないと断りましたが、ペリーも引き下がりません。やむなく、アメリカ大統領の国書を受け取り、ひとまず帰ってもらうことにしました。
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ペリーが去った翌7月には、ロシアのプチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて、長崎に来航。幕府はペリーのときと同じように国書を受け取ることにしました。 プチャーチンは、4ヵ月後に再度、長崎に来航。幕府は、ロシアからの国書に対する返事として、「開港、開国お断り」の返書を渡しました。その後しばらく交渉は続きましたが、「他の国と条約を締結したときは同じ条件で貴国とも締結しますので、お引取りください」と約束して、帰ってもらいました。
このことを知ったアメリカのペリーは、1854年1月、7隻の艦隊を率いて再来日。横浜で1ヶ月にわたる交渉の末、日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。 幕府が、アメリカと最初に条約を締結したのは、ペリーからの威嚇に屈したわけではなく、イギリス・フランス連合軍とロシアの間で開戦した「クリミア戦争」に巻き込まれたくなかった思惑があります。どちらかと組めば侵略の口実を与えることとなるからです。 そのため、新興国で大国ではないが、オランダほど弱くはないアメリカと最初に条約を締結することにしました。 その後、イギリス、ロシア、オランダと次々に和親条約を締結し、3代将軍家光から250年続いた貿易統制(鎖国)を解除し、開国しました。 | |
ペリーは、日米和親条約締結の4年後、1858年に亡くなりますが、彼の回想録「日本遠征記」では「日本人の卓越した手先の器用さと工業的能力の完全さは驚くべきものがある」、「外国との交流が進むにつれて、日本は世界の最も恵まれた国々と並ぶまでの水準になるだろう」とその後の日本を予言する言葉を記していました。 ・・・つづく
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